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【そもそも人間学とは何か】 穢国悪世の現代に読む書

知古嶋芳琉です。

 PHP文庫の中に

安岡正篤:現代活学講話選集」の、

『酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)』

という一冊がございまして、

安岡先生は、

この『酔古堂剣掃』を

「人間が人間としての人格、

人間としての教養、

人間としての生活を潤す」

とまで言って

絶賛しておられます。

 この本は文庫本ですから値段もお手軽です。

是非とも自腹を切ってお買い求めいただき、

座右の書に加えていただき、

折に触れては

じっくりと玩味していただきたい一冊でございます。

−−−ここからは、その中の部分引用です−−−

○ 「穢国悪世(えこくあくせ)」の現代に読む書

仏典

『悲華経(ひけきょう)』

の中に

「穢国悪世」

という言葉があります。

現在の

われわれの世の中は、

本当に

この言葉どおり

穢国であり

悪世であり、

その意味では末世、

あるいは

衰世(すいせい)と言うてもいい。

このお経は

日本の僧侶でも

まだ知らない人が多いけれど、

実にいいお話しであります。

その中に

西方極楽浄土に往生するなどというのは

まだ浅いもので、

穢国悪世に成仏することこそ

本当の菩薩(ぼさつ)大悲である」

とあります。

私はときおり

「緑に触れる」

と言うのですが、

それこそが

菩薩大悲の至極(しごく)であります。

この悲しみという感情は、

人間のいろいろの感情の中の至極であって、

人間そのものを表わす。

喜ぶという感情もある。

楽しむという感情もある。

怒る、悔やむなどと

いろいろの感情があるが、

あらゆる感情の中で、

悲しむという感情ほど

人間そのものを表わす至極はありません。

その悲しみに「大」の字をつければ、

「大悲」

になります。

観世音菩薩のことを

大慈大悲の至極という所以(ゆえん)であります。

ですから、

母の一番貴いところを「悲母」と言います。

明治画壇の代表的存在であった、

狩野芳崖(かのうほうがい)に

「悲母観音」の名画があるが、

「悲母」という言葉は、

母・女性の至極の表現なのであります。

今日の日本はまさに穢国悪世です。

どう贔屓目(ひいきめ)に見ても

汚れた国であり、

悪い世の中です。

その穢国悪世を捨てないで、

穢国であればあるほど、

悪世であればあるほど、

菩薩にすれば

これ以上の悲しみはない。

いわゆる大悲の至極なのであります。

この悲という字に「願」をつけると「悲願」となる。

楽願ではいかんので、

悲願ということが一番尊い

菩薩の悲願こそが大悲の至極なのであります。

 したがって、

こういう穢国悪世を、ただ単に非難したり、

憎んだり、憤(いきどお)ったり、

それはいろいろの感情があります。

けれども、

国民として、識者として、一番の至極の感情は、

やっぱり悲しみということであります。

特にわが国の指導者たちは、

それこそ

「大悲」「悲母」の心を持たなければいかん。

そして

国民もまた、

今日(こんにち)こそ

生きる根本において、

慈悲の学問、

慈悲の信仰、

慈悲の願い、

いわゆる悲願を養うべきである。

そういう心があって初めて、

その中に

人間としての

真の楽しみが発見されるのであります。

人間の感情というもの、

人間の良心というものは、

いかにも神秘なものであって、

心の

そういう

最も深い琴線に触れるような学問をすることが

非常に尊いのである。

それには

やはり、

古人の傑作名著を読むのが一番です。

しかし、

そういう学問は

一朝一夕では会得できるものではない。

のみならず、

突きつめていえば、

独り学ぶべきもの、

「独」の心境で学ぶものである。

「独」という字には、

非常に複雑な、

非常に深遠な意味がある。

まず

第一番に

誰にでもわかるように

多くの人に対する一人、

孤独の独という意味があり、

そのほかに

「絶対」

という意味がある。

相対を超越するという意味の独である。

「超越する」という言葉もまた、

みだりに使えないけれども、

相対を突きつめると絶対になる。

それをさらに突きつめると人間も独になる。

つまり、

孤独の独ではない。

絶対の独なのであります。

それがわかって初めて

独立・独参・独行(どくぎょう)となる。

剣聖・宮本武蔵は「独行道」と言うております。

われわれもまた

複雑きわまりのない現実の中にあって、

時には独になりますが、

独を味わうことは極めて尊いことです。

荘子(そうじ)』ではこれを「見独」と言い、

仏教では

必ずしも

禅にかぎらんが、

独の深理、教え、真理を説いておるのでございます。

 そして

だんだん

独に徹していくと、

初めて

真の楽しみも開けてくる。

そこが

人間精神の最も微妙なところで、

「独楽(どくらく)」の境地が開けてくる。

これを「一人楽しむ」なんていうのは

極めて浅薄なる解釈であって、

本当は

「独の楽しみ」と考えなければならん。

すなわち、

自分自身、

孤独、

これは誰も寂しいことであるが、

その孤独にだんだん徹していくと

独楽の境地が開けるのであります。

そういう複雑微妙な気持ちから、

独悲ではなくて、

独楽の文献を選び出して

読んでみようかと思ったら、

古人の文献には

「いいな」

と思う材料がいくらでもある。

しかし、

あまり凝ったものだと、

これを解説するのに

時間がかかるばかりでなく、

予備知識がまた大変である。

率然として話しをしても

なかなか意を尽くせない。

何か

わかりやすい、

しかも

昔から

日本人、

特に

われわれの前代である

明治の人々で、

見識が広く、

心ある、

教養の高い人々が読んだものは

ないだろうかと、

あれこれ探してみたら

一つには

菜根譚

があった。

しかし

これは

どうも

物足りない。

そこで

ふと思ったのが

『酔古堂剣掃』です。

これは徳川時代から、

特に明治の人々が

非常によく読んだもので、

広く行き渡っていた。

「剣掃」は「ケンソウ」と読んでもいいのだが、

読み癖で「ケンスイ」と読まれている。

この本は

意外なほど広く普及して、

いろいろの文人・墨客が愛読したものとしては、

菜根譚』などより

ずっと内容が豊富で

かつ

おもしろい。

昭和の初めのころであった。

私は

『酔古堂剣掃』が

大変におもしろいものだから、

その中から

会心の文章を選んで

講じたことがある。

それに対して、

私の心友であった

作家の

吉川英治君が

非常に共鳴して、

吉川君が装丁をしてくれた

私の著書

『童心残筆』

の付録としたことがあります。

 余談ながら、

この本は

当時としては

大変に贅沢な装丁で、

私としては、

どうせ

道楽な人が

いくらか読むのだろうと思っていたら、

びっくりするほど売れたことがある。

そこで

今回は

『酔古堂剣掃』から、

私が

『童心残筆』に選び出した文章をテキストにして

皆さんと一緒に

しみじみと

味読してみようと思います。

この穢国悪世の

実に物情騒然たる

雑駁な時世に、

こういう本を読むことは、

一つの救いであり、

妙薬であります。

そういう意味で講じますから、

皆さんも

耳と目と心を働かせて、

楽しんで聴いてください。

 『酔古堂剣掃』という書物は、

明末の教養人・

陸紹行(りくしょうこう)が

長年愛読した古典の中から

会心の名言嘉句(かく)を収録した

出色の読書録であります。

当時の中国は

伝統的な儒教仏教道教が知識階級に普及して、

それまで対立していた

儒・仏・道の三教の我(が)が取れて、

自由に三教に遊ぶような

読書人・教養人というものが輩出した。

これは明代の一つの特徴であり、

そういう中から

王陽明(おうようめい)や、

あるいは

陳竜川(ちんりゅうせん)とか

いろいろ

偉い人も出た。

発達した読書人階級の間に、

単に知識を習得して

資格試験に及第する学問

というものだけでなく、

人間および生活そのものを潤す

真の意味の学問が普及し、

人間学の貴重な書物・善本がたくさん出た。

西洋人の言うカルチャーとしての学問・読書、

これが大変に発達し、普及したのであります。

 それらの善本の中から

日本に普及したものの一つが『菜根譚』であり、

特にそれから明治時代にかけては

『酔古堂剣掃』であった。

明治の人はよく読んだものでありますが、

大正になり昭和になるとともに、

だんだん読まれなくなった。

まだ『菜根譚』のほうが

だいぶ残っており、

近ごろもまた2、3、訳されたりして

出版されておるようですが、

『酔古堂剣掃』にいたっては

明治・大正で

ついに終わった

というか、

昭和になって

ほとんど見かけなくなりました。

 しかし

内容は

『酔古堂剣掃』のほうが

比較にならんほど豊富です。

これは

単なる一片の知識だとか

理論とかいうものではない。

 人間が人間としての人格、

人間としての教養、

人間としての生活を潤す。

孟子の言葉で言うと

「心広体胖(しんこうたいはん)」、

人間の心を広く体を胖(ゆた)かにする

「広胖(こうはん)」

という熟語があるが、

心身を本当に養う。

つまり

心の食べ物、

心広体胖ならしめる

精神・魂の食物であります。

−−−引用はここまでです−−−